2009年8月17日 星期一

荒川の河川敷

数年前、仕事のため、台湾の宜蘭に滞在した時、住んでいた家は川の傍なので、時々本を持って堤防を越えて、河岸の敷地を訪れた。宜蘭の滞在中は人生の中で一番寂しい時期だったともいえる。友達が一人もいないし、テレビとインターネットもないし、完全に一人ぼっちになったという状況だった。しかし、その寂しさの醍醐味を味えるようになったきっかけはやはり一人で土手でゆったりと本を読んでいる時間だった。ものすごく貴重な記憶だ。##ReadMore##

そのため、東京の住まいを探していたとき、そのときの記憶を思い出した。川辺に住みたいと思った。最初は荒川と隅田川の間の足立小台の近くに住もうと思ったが、やはりちょっと理想的過ぎた。最後は荒川から自転車で約10分程の距離のところに決めた。

東京の生活が始まったばかりのとき、一度荒川の土手を訪ねたことがあったが、その後、どんどん忙しくなって、じっくりと自分の生活環境を楽しみ探検する興味もなくなった。そこで、この二三日東京はよく晴れているから、夕方になると、もう一度土手を訪ねる思いに胸が高鳴ってきた。そして、今日はやっと思い切って本を持って土手に行くことが出来た。

五時ごろ、日差しが弱くなって、夕方の涼しい風も吹いてきた。気持ちいいなぁ。しかし、土手でいい場所を探して芝生に座って、ゆっくり本を読もうとしたら、あるあいにくなことを発見した。今日の荒川の土手で除草の作業が行われている。除草されたままの芝生はあまりにも尖っていて、まだ除草されていない芝生は長すぎで、どちらにしても座り心地がよいと言おうにも言えない状況だった。残念だった。

仕方なく、コンクリート製の階段に座って本を読み始めた。......やはりちょっと想像と違うな。座り心地はおろか、目の前の景色も宜蘭の景色と違った。荒川は都市の中の川なので、足立区側の堤防を越えても、目にするのは当然山ではなく、都市だ。そして、後ろは土手よりずっと高い首都高速道路で、後ろからの「ビュウビュウ」という車の声も無視できないほど絶え間なくしている。まぁ、しょうがない。これこそ東京らしい河川敷なのではないだろうか。

本をそばに放って、夕方の荒川の河川敷と遥かにある東京の町を見ていた。夕方の空は綺麗だった。もし博士に無事に進学できたら、たぶんあと三、四年ここに住まなければならないようになるかもしれない。そうしたら、この川も僕にとって重要な記憶になるかもしれないね。「嫌われの松子の一生」という映画の主人公のように、頭の中にある遥かな存在のような川があるという思いを背負って一生を送るという人生を暮らして、いいんじゃないだろうか。

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